ゴミ

9月のある晩。友達と通話をしていた。そんなに頻繁に関わるような相手じゃなかったから嬉しくて、だらだらと喋っていたら外が明るくなっていた。
 
その日は車校修了検定だった。
 
……バカ?
そして運の悪いことに受験番号は1、トップバッターだった。ろくに働かない脳みそとその割に冴えている意識を抱えて挑んだ検定、自分が何をしているのかよく分からないままに気がついたら終わっていて、本当に何が何だかさっぱりだったけれど「君の運転は精神状態が露骨に反映されていて云々……」という教官のアドバイスを聞きながら”””落ちた”””という感触だけをはっきりと掴んでいた。
 
ロビーに戻ってとりあえずTwitterを開き、マスクの下で自分の愚かさに笑いながらTLを追う。すると「おつかれ!」という声が飛んできて、振り返るとちょっとチャラめの黒マスクおじさんが立っていた。誰だこの人。ああそういえば私が運転してるとき後部座席に乗ってた気がする。麺類の愚かさ3倍濃縮!みたいな運転に付き合わせてしまってめちゃくちゃ申し訳ないな。とか何とか考えながら当たり障りのない世間話をしていたはずが、いつの間にか私たちはすっかり打ち解けていた。そう、ハイパー人見知りコミュ障であるはずの私は徹夜明け深夜テンションで饒舌になっていたのである!! そしておじさんのコミュ力トーク力も高かった。
 
「実は俺、美容師やっててさ」
 
仕事の話を始めるおじさん。あ~~だからこんなにコミュニケーション上手いんだなと納得する私。
 
「アパートの部屋借りてたったひとりでやってて」
 
「広告は一切出してないからお客さんは完全にこっちで選べて」
 
メインの客層は独立する前の店の常連さんだけど稀に気になった人に声をかけて引き込むこともあって」
 
「普通の美容院ってお客さんの目の前にあるのは鏡でしょ? でもうちは髪切りながらお客さんと一緒にアマプラで映画観てるんだよね」
 
「こんなだからお客さんとの距離も近くって」
 
「(めちゃめちゃオモロいお客さんの話)」
 
「(めちゃめちゃ珍しいお客さんの話)」
 
「(めちゃめちゃ狂ったお客さんの話)」
 
具体的な内容はここに書けない感じなので割愛するけれど、とにかく狂気と非日常をこよなく愛する私のハートを掴むにはじゅうぶんすぎるぐらいの内容だった。目をキラキラさせながら話を聞く私。
 
「良かったら君もうちの店に来てみない?」
 
悪魔の囁き。
気がついたら私はおじさんとLINEを交換していた。周りにいる若者たちから見たら、完全にチャラいおじさんにナンパされてホイホイついてく芋くさいバカ女子大生だったと思いますどうもありがとうございました。
 
「もしやっぱり行きたくないとか思ったら、そのときはブロックしてくれて良いから」
 
そう言い置いておじさんは去っていった。
 
検定には受かっていた。何で?
 
 
 ***
 
 
それから丸々1週間ほど悩んだ。
 
私は徹夜明けで正気を失っていた。おじさんは広告を出していないから美容院の口コミを調べることができないし、そもそも彼が本当に美容師なのかどうか確かめる術すらない。おじさんの店に行くということはつまりアパートの一室で知らん大人の男とふたりきりになるということで、何かあったら私はまず助からないだろう。でも私たちが出会ったのは自動車学校、おじさんの身元はその気になればすぐに暴くことができるし私がまだ(当時)18歳であることも話している。そんな状況でヤベーことできる奴がいたらそいつはきっと気狂いに違いない。もちろん何もされないのがいちばん望ましいけれど、気狂いの毒牙に掛かって狂気を浴びながら死ねるんだとしたらそれはちょっと悪くないかもしれない。おじさんはめちゃめちゃ怪しいしめちゃめちゃアブなそうだが、怪しくてアブないことってめちゃめちゃ面白そうじゃない!?
 
要するに、行かない理由なんてなかったのだ。何も起こらなければ私はハッピーな非日常空間に浸って好奇心を満たすことができるし、何か起きたとしてもとりあえず狂気という楽しいクスリをキメることはできる。
唯一確かなのは、私がバカだということ。愚かな行為なのは分かっているから、何かされそうになったらそのときは潔く諦めよう。せめて他人に迷惑をかけることだけは避けたいから、誰にも何にも泣きつかず「自己責任」で片づけよう。そう覚悟を決めて、おじさんにLINEを送った。
 
日程は簡単に決まった。誰かを巻き込むのも、心配かけるのも止められるのも嫌で誰にも相談はしなかった。それでも何となく記録を残しておきたいような気分になって、家を出る直前、止めてくる人間がいなさそうな極々小さいアカウントで今から怪しい美容室に行ってきますという旨のツイートをした。フォロワーはちょっと引いてた。
 
私はその日も、徹夜をしていた。正気を失った状態で仲良くなった人間との逢瀬、ちゃんと正気を失って行くのが礼儀だと思ったから。
 
 
 ***
 
 
おじさんとはアパートの下で待ち合わせをした。古くて薄暗いアパート。当たり障りのない挨拶をして、そのまま彼の根城へと案内される。正直かなり緊張していた。スタスタと歩いてエレベーターに乗り込むおじさんに慌ててくっついていって、あっという間に部屋の前。
おじさんが扉を開け放つ。
 
美容院の匂いがした。
 
私は安心した。先に中に入ったおじさんに続いて足を踏み入れると、ちょっとお洒落な一般住宅と美容室が生殖したらこんなのが生まれるんだろうな~みたいな空間が広がっていた。
 
「ちゃんと美容室でしょう」
 
おじさんが笑う。
 
「さて、天ぷら寿司中華麺類どれがいい?」
 
『え?』
 
「先に腹ごしらえしなきゃいけないでしょ。良いお店たくさん知ってるんだ」
 
なるほど。たっぷり食わせて丸々太らせたところでおいしく頂こうという魂胆か。
 
『麺類でお願いします』
 
私は即答した。アパートに荷物を置いて身軽になって、そのままおじさんとふたりで街に繰り出した。連れて行ってもらったお蕎麦屋さんは信じられないぐらい美味しかった。
 
 
 ***
 
 
しっかり肥えて戻ってきて、いよいよおじさんに身を任せるときが来た。せっかくだから髪型もぜんぶおまかせにした。ゴムで括られた私の髪をするりとほどきながら、おじさんは落ち着いてるのに軟骨ピアス開いてるのが良いだとかインナーカラーに意外性と遊び心があるだとか大人しそうなのに話してみると芯があるだとか言って私を褒めた。
 
こういう一筋縄ではいかなさそうなところに惹かれて声をかけたんだよ」
 
こんなに褒められることなんてなかったからどうしていいか分からなかったけれど、おじさんの声の中には下卑た含みがひとつも感じられなかったので私は安堵した。この頃にはもうおじさんを信頼しきっていた気がする。
 
さて、私の正面には、話に聞いていた通り鏡ではなく大きなテレビが鎮座していた。
 
「観たい映画ある?」
 
観たい映画……そうだ、ずっと気になっていたあの映画があるじゃないか。
 
 
『  ミ  ッ  ド  サ  マ  ー  』
 
 
チョキチョキ。
 
髪が切られる音。
 
肉がつぶれる音。
 
悲鳴。悲鳴。悲鳴。
 
目を輝かせる私。
 
そうか、こういう考え方もあるんだね。
 
呟くおじさん。そこから始まる私たちの死生観談義。
 
ひとしきり盛り上がって、また、悲鳴。
 
私が唾を呑み込む音。
 
おじさんが唾を呑み込む音。
 
パサリと床に落ちる髪の束、固まる空気。
 
時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
 
……なぜ、私は知らない男とふたりきりで、男女のまぐわいを見守っているのか?
 
異様な空間だった。
異様な空気が流れていた。
 
知らなかったのだ、私は。ネタバレを避けていたから、狂いきった映画だということしか知らなかったのだ。確かに狂いきった映画だった、良い狂気だった、けれどまさか特殊性癖保持者選別用AVみたいな映像が流れ始めるとは思わないだろ!!!!!!!!
 
映画が終わっても、しばらくの間私たちは凍りついていた。少し経ってようやくおじさんが動き出して、コーヒーを淹れて持ってきてくれた。
異様な空気感から逃げるような気持ちでコップに口をつける。舌の上に広がる深い苦み。私はブラックコーヒーが好きだ。
 
『おいしいです』
 
「それ、クスリ入ってるよ」
 
『そうですか』
 
そのままもう一口飲む。おじさんはニヤリと笑った。
 
若い女の子がひとりでこんなところに来て、あんな映画を所望して。俺はそのコップの中に、いつでも媚薬や睡眠薬を入れられるんだよ。さっきの映画で、変な気を起こしたとしたら?」
 
『……ここに来ることを決めた時点で、それなりの覚悟はできてるので大丈夫です』
 
おじさんは呆気に取られた顔をした。
 
「正直なところ、君はたぶん来ないだろうと思ってたんだ」
 
LINEが来て驚いた、怖くなったらいつでも逃げられるように、エレベーターには自分が先に乗ったし部屋に入る前に中が見えるよう扉を大きく開けた、部屋の中にも先に入った。君は全く逃げようとしなかった。
完全に予想の上を行かれたね。そう付け足したおじさんは嬉しそうだった。
出会ったとき徹夜明けだったこと、今日も徹夜して来たことを伝えたらおじさんはもっと嬉しそうにした。コーヒーを飲み干しても私の身体は何ともなかった。
髪の仕上がりは良かった。派手過ぎないこの色が似合うと思って、と入れてくれたカーキを私はとても気に入った。
すっかり上機嫌になったおじさんは、その日のお会計を無料にしてくれた。
 
そして私はこの美容室に通うことに決めた。